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クイズ作家・田中健一のオフィシャルサイトです。

Ultra Quiz アメリカ横断ウルトラクイズ体験記

   
【36】賞品の真相

 9月23日。
 6時15分、まだ暗い中をスタッフのワゴンで出発。空港で2機のセスナに乗り換える。
 機長の勧めでコックピットに座らせてもらい、雄大な景色を楽しみながら目的地へ。
 どこまでも広い大地、蛇行する川、そして滑走路が1本。そんな場所に着陸する。
 そこはコロンビア・バレーと呼ばれるところで、川の向こうはもうオレゴン州だ。

 車に乗り換えると、ブドウ畑が見え隠れし始め、降りたところには建てかけの家が一軒あるほかは、一面のブドウ畑。
「どうだい?」
「いい眺めですね」
「で、田中君、どの列にする?」
「えっ? どの“列”ですか?」
「どの列にしようか?」
「一列ですか?」
「もちろん、君にあげるのは一列だけだよ」
 そうか、これがオチだったのか。
「でも、一列は確かにもらえるんですね?」
「そう、一列は君のものだよ」
 それなら悪くないような気がするのだが……。
「じゃあ、やろうか」
「えっ、やる?」
「そう、やるんだよ」
「何をですか?」
「ワインをつくるためには、まずブドウを摘みとらないとね」

 建てかけの家に入り、シャツにオーバーオール、靴下にブーツに手袋と、パンツ以外はすべて着替えさせられる。
 賞品用の列までは少し距離があるので、車で移動。

 実際には3列が撮影のために確保されており、地主のジョンさんの指導で摘みとり開始。
「ワン・テイスト、トゥー・ホールド、スリー・ピックダウン、アンド、ペッ」
 いちいち掛け声をかけさせられる。最後の「ペッ」は皮を捨てる音だ。

 最初は一人でやっていたが、途中で助っ人を雇ったという設定で、3人の現地労働者が参加。
 手の空いているスタッフも総出で手伝ってくれたが、2時間かかっても大きなケースは全部埋まらず、最後は空ケースを下に敷き、上げ底をしてごまかす。

 僕らはセスナで、ジョンさんはブドウを乗せたトラックで、コロンビア・クレスト・ファクトリーへ。
 ブドウを潰す機械にさっき摘んだブドウを流し込もうとして、上げ底をしたことを思い出す。
 苦笑しながら、全員でブドウの山をかき分け、ケースを取り出す。
 ほんの数秒分の撮影に、なんと手間のかかることか。
 ブドウが無事に投入されるのを見届け、建物の中へ。

 ベンチで出番を待っているうちに、いつしか眠ってしまう。
「賞品なんかどうでもいい。一刻も早く日本に帰りたい」
 それがこの時の偽らざる心境だった。
 ニューヨークまでは精神的、肉体的に最高の状態を維持してきた僕も、最後の敗者・大西さんと別れた時点で緊張の糸がプツリと切れ、疲れが出始めていたし、3週間以上空けている家がどうなっているのかも心配だったのだ。

「大丈夫?」
「疲れた?」
 プロデューサーの下芋坪さんをはじめ、スタッフみんなが温かい言葉をかけてくれる。
 この人たちは僕よりずっと疲れているはずなのに。
 賞品撮影も立派に番組の一部であり、スタッフは決して手を抜こうとはしていない。
 それなのに僕だけ気を緩めて……そう思うと自分がとても恥ずかしくなった。

「ブドウ畑って、本当にもらえるんですか?」
 改めて下芋坪さんに聞いてみる。たった1列とはいえ、かなりのブドウが採れることは身をもって知ったばかりだ。それなら、ウルトラの賞品としてはまともすぎるような気がしたのだ。

 下芋坪さんの言葉を要約するとこうだ。
 ウルトラクイズは、あげると言ったものはあげる。1列は確かに君のものだ。
 ただ、外国で土地を持つといろいろ面倒だ。
 1年目は日本テレビがすべての手続を行い、この1列からできるワイン約500本の中から送料・税金分を引いて君に送る。最低300本は残るだろう。だがもし、ずっと畑を持ち続けたいなら、2年目以降は君がすべての経費を負担することになる。維持費だけでも年間7000ドル、他にもワインの加工費、税金など、かなりのお金が必要だ。つまり、たとえワインをうまく売ることができたとしても、全然ペイしないんだ。

 それじゃあ権利書は? 土地を貸すという形にすれば?
 いろいろ突っ込んで聞くこともできた。でも、その気にはなれなかった。
 とりあえずワインはもらえる。自分は飲めなくても、いろんな人に配ることはできる。
 それで十分だ。
 
 最後の撮影は、地下のバレルルームで行われた。
「樽、カムイン、プリーズ」
 〈Ultra Quiz XVⅠ〉と印刷された樽がフォークリフトに載って登場。
「ボトル、カムイン、プリーズ」
 スノコルミーのワイン販売所にいたアンダーソンさんが入ってくる。
 ボトルには〈Minira Choo Choo〉というブランド名が。
 グレープジュースでテイスティングするシーンを撮り、すべての撮影が終了。
 またまたセスナと車を乗り継ぎ、ホテルに戻ったのは19時半。
 1日半がかりの賞品撮影が終わった。

【37】シアトルの街へ

 9月24日。7時に起床。
 今日は予備日だったが、撮影が無事終了したということで、完全なオフとなった。
 遠藤さんに一人で自由に遊んできていいと言われ、お小遣いと地図をもらう。ウルトラのツアー中にこんな機会があるとは夢にも思わなかったから、とても嬉しい。
 シアトルの街はこじんまりとまとまっているので、時計回りに一周する計画を立てる。

 小雨が降る中、まずは南端のキングドームへ。朝なので閑散としていて、つまらない。
 ユニオン駅を覗き、本屋をひやかし、怪しげな中華料理屋で朝食。
 エリオット湾に出てシアトル水族館へ。日本の水族館と大差ないが、初めて見たラッコがとてもかわいい。
 ピア70までストリートカーに乗り、シアトルセンターへ。万博の跡地につくられた総合公園だ。リスがチョロチョロする中を散歩し、シアトルのシンボルタワー、スペース・ニードルへ。185メートルの展望台から見るシアトルの街は、なかなか絵になる眺めだ。
 マクドナルドで昼食。モノレールに乗ってウエストレイクセンターへ戻り、パイク・プレイス・マーケットへ。崖っぷちにあるこのマーケットは、何層にも分かれた複雑な構造をしていて、中にはありとあらゆる店が並んでいる。
 魚介類・野菜・果物など各種生鮮食料品に衣料品、民芸品に骨董品などを売る店が所狭しとひしめきあい、アメ横を数段パワーアップしたような感じだ。中でも面白かったのがインディアンの店で、軍服や壺といったまともなものから、仏像、お面、コカコーラの看板、錆びついた鍵など、ガラクタのオンパレードだった。
 気になるものはいろいろあったが我慢し、新鮮なイチゴとブドウを買って一旦ホテルへ。一休みして、今度はボン・マルシェへ……。日が暮れるまで、足が棒になるまで歩き回った。

 夜は中華料理屋でスタッフの打ち上げに参加させてもらい、いろんな裏話を聞く。
 今回の参加申込葉書は68000通も届いたそうだ。
「本当はこの人数でやりたいんだよね」
 福澤さんの言葉が実現するのはいつのことだろう。

 2次会はカラオケバーへ。
「カラオケはどんなのを歌うの?」
「何でも歌いますけど、特に好きなのは浜田省吾と……」
 昨日交わしたそんな会話を福澤さんが覚えていて、いつの間にか『MONEY』が入れられていたりしたが、みんなで盛り上げてくれて、とても気持ちよく歌うことができた。
 「ウルトラクイズに幸あれという願いをこめて」福澤さんが歌ったのは『SACHIKO』。上手いのは言うまでもなく、自分で自分を盛り上げてしまうのは流石だ。
 しだいに客が増え、日英韓の3ヶ国語によるカラオケ合戦となったが、清さんは『GLORIA』、音声の岡藤さんはツマミをあちこちいじりながら『悲しみにさよなら』、棟方さんは意表をついて『みちのくひとり旅』など、みんなの上手さとパフォーマンスで他の客たちを完全に圧倒してしまった。
 そしてトリは「カラオケ大王」の異名をとる下芋坪さんの登場。『勝手にシンドバッド』を歌ってお開きとなった。


【38】さよなら、アメリカ/シアトル→ロサンゼルス→成田→東京

 9月25日。朝4時に起床。
 「明日は早いから、みんな寝過ごさないように」と念を押していた下芋坪さん本人が寝過ごすという大ボケをかましたが、無事空港へ。7時発のユナイテッドでロスへ飛んだ。
 本土に上陸した挑戦者は、ほとんどがロス経由で帰るようになっており、僕も例外ではない。

 ロスでは4時間ほど待ち時間があり、うどんを食べながら福澤さんやキムさんと話をする。キムさんとは今までほとんど話す機会がなく、どことなく冷たい感じの人という印象を持っていたが、話してみるとまったくの誤解だったのがわかる。現在はニューヨーク住まいだが、日本にも何年かいたそうだ。
 改めて振り返ると、今回の旅はスタッフにも恵まれていたと思う。言葉を交わしたのはほんの一握りに過ぎないが、妥協を許さないプロの仕事を垣間見ることができたし、挑戦者をとても大事に扱ってくれたし、話をした人はみんないい人だった。

 14時、ANA5便はロスを後にした。
 席はみんなバラバラだが、福澤さんと僕だけは禁煙席で隣り同士だ。
「ウルトラクイズの帰りですか?」
「はい。こちらが新チャンピオンです」
 福澤さんが僕を紹介してくれたおかげで、スチュワーデスが次々に話しかけてくれる。
 ANAのスチュワーデスは綺麗な人ばかりで、おばさんの多かったアメリカの航空会社とは大違いだ。
 福澤さんは食事のときにむくっと起きるだけで、あとは爆睡。僕は1か月ぶりに日本の新聞を読み、映画を見たり音楽を聴いたりしながらずっと起きていた。

 日付変更線を越え、26日の夕方、成田に到着。
 空港には2人のスタッフが迎えに来ていた。
「元気でな」
「はい!」
 福澤さんと握手し、日テレへ直行するスタッフとお別れ。
 スーツケースに旅行鞄、スタッフにもらったお土産のワイン1ダースを宅急便で出して身軽になり、遠藤さんと二人でスカイライナーに乗り込む。
 上野で遠藤さんと別れ、一人で山手線の乗客となった。
 
 長旅の終わりにいつも感じるえも言われぬ寂しさはなく、解放感と満足感だけが、深く僕を満たしていた。


【39】夢がかなって

 小さな頃から負けず嫌いだった。
 どんな些細なことや、ただの遊びでも、「勝負」と言われるものにはすべて勝ちたかったし、いつも自分が一番でいたかった。
 常に勝ち負けにこだわる姿は、見苦しいものかもしれない。だが、ここまでの僕を支えてきたもの、そして今でも僕の根源にあるものは、この「負けず嫌い」という性格と「向上心」なのだ。

 ウルトラクイズは、10年前から追い続けた最大の夢だった。
 そんな夢舞台で勝てたことの意義ははかり知れなく大きいし、今はとても幸せだ。
 でも、もちろん、いつまでも栄光の上に胡座をかいているつもりはまったくない。
 日本に帰ってきた瞬間から新しい挑戦が始まっているのだ。

 ウルトラクイズに匹敵するほどの大きな夢は、まだない。
 だがこれからも、僕が僕であるために、いろんな場面で勝ち続けたいと思う。
 いつかまた、アメリカの大地を駆けまわる日が来ることを信じて……。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この体験記は、翌年(1993年)のはじめに書き終え、
「東京大学クイズ研究会10周年記念名簿」に掲載してもらったものをベースに、
若干の加筆・修正を行ったものです。